ヤスの独り言

ストワの話だったりそれ以外の話もします。技術ネタ多めかもしれない

駆逐艦発達史 ぱーと2 ワシントン海軍軍縮条約と駆逐艦

前回に引き続き駆逐艦の歴史です。
今回は第一次世界大戦の直後から

って言うわけで目次

ワシントン海軍軍縮条約

1921年ワシントン海軍軍縮条約が採択されます。
これにより主力艦である戦艦の保有数が英:米:日の比で大体5:5:3になりました。
戦艦を増やせなくなった各国は、「補助艦艇作るしかねぇ」っていうことになり、各国で重巡洋艦軽巡洋艦駆逐艦に力を入れ始めました。

日本では古鷹型重巡洋艦妙高重巡洋艦、川内型軽巡洋艦睦月型駆逐艦の建造に乗り出します。

睦月型駆逐艦「睦月」

今回は、駆逐艦の話なので睦月型に注目していきます。
睦月型峯風型系列の3型(峯風型、神風型、睦月型)のラストで、前2型とは一線を画す存在です。

前回の復習ですが、第一次世界大戦ユトランド海戦で、ドイツ駆逐艦が雷撃をする前にイギリス駆逐艦の砲火力で撃退されました。
このことから、日本では八八艦隊計画で砲火力重視の艦を作ることになります。
ここから作られたのが古鷹型重巡洋艦峯風型駆逐艦です。(古鷹はワシントン海軍軍縮条約の採択も原因)

古鷹型重巡洋艦「古鷹」

この砲火力重視の思想により、峯風型と改良型の神風型は当時10cm級の主砲の駆逐艦が多い中、12cm単装砲4門となりました。
睦月型も主砲は同様の仕様ですが、ワシントン海軍軍縮条約により、主力艦保有数で不利な日本は、補助艦艇が主力艦に対して確実に雷撃をし、確実に撃沈させる必要が生まれました。

そこで睦月型は、魚雷発射管を、連装53.3cm3基から、3連装61cm2基に変更しました。
なぜ、連装から3連装に変更し基数を減らしたかですが、61cmになったことで、魚雷発射管のサイズが大きくなったのが原因です。
なおスペースが足りなくて3連装2基にしたのか、省スペース化のために3連装2基にしたのか、因果関係は不明です。
この61cm魚雷、航続距離も炸薬量も増えたので、より遠距離からより強力な破壊力を出せるようになりました。

また、神風型からの改良点として、ダブルカーブド・バウを採用し凌波性を向上させました。
神風型まではカッターバウでした。

睦月型駆逐艦4番艦「卯月」 睦月型は艦首がS字形状のダブルカーブド・バウ

峯風型11番艦「太刀風」 峯風型はJ字に近いカッターバウ

他にも、燃料搭載量を増やしたのですが、それで重心が上がり、復元力が犠牲になっています。
これはこの先の駆逐艦でもおざなりになり、このことが後々大きな事件を起こすのですが…

特型駆逐艦の誕生

睦月型で世界水準を大きく上回る駆逐艦を生み出した帝国海軍でしたが、1924年、さらに高性能な駆逐艦の要望を出しました。
これにより開発されたのが吹雪型です。特型駆逐艦とも呼ばれています。
1928年から順次竣工し、合計24隻が作られました。
ワシントン海軍軍縮条約から6年、睦月竣工からわずか2年でした。

吹雪型駆逐艦24番艦「電」
吹雪型睦月型から大きく進化した駆逐艦です。
大きな改良点は、

1.主砲を単装4基から連装3基に
2.雷装を3連装3基に強化
3.艦橋を密閉式に
4.艦首形状の改善
5.凌波性が格段に向上し、外洋航行能力を獲得

といった点です。

特に5番に関しては大きく、外洋にまで主力艦に随伴できる能力を得ています。
これにより水雷戦隊の戦力として使用することができ、今まで巡洋艦以上の大型艦しかいなかった海戦に、駆逐艦を大量に投入することが可能になりました。

今回はこの辺りで終わっておきます。次回の記事で特型駆逐艦を特集したいと思ってるので。 というわけで、次回は特型駆逐艦スペシャル編(?)です。

駆逐艦発達史 ぱーと3 駆逐艦の進化と2つの事件

あけましておめでとうございます

今回は吹雪型特集的なものです。(普通に次級の初春型とか白露型とかも出てきますが…)
特型駆逐艦はイイぞ!

というわけで目次

特型駆逐艦

前回の復習ですが、ユトランド海戦で、駆逐艦の砲火力が重要であることが判明し、各国が砲火力を重視した駆逐艦をつくりました。
その中で、日本では峯風型と神風型が生まれました。

またワシントン海軍軍縮条約で、主力艦の保有数が制限されたため、世界各国は補助艦艇に力を入れ始めます。そこで登場したのが、神風型から凌波性、魚雷火力を向上させた睦月型でした。ここまでが復讐です。

そして、睦月型から数年で、日本海軍はまた、世界水準を上回る睦月型のさらに上をいく、革命的な駆逐艦を生み出します。

そう、吹雪型駆逐艦です。

特型駆逐艦吹雪型1番艦「吹雪」

主な改良点は

1.主砲を単装4基から連装3基にし、主砲を砲塔化
2.雷装を3連装3基に強化
3.艦橋を密閉式に
4.艦首形状の改善
5.凌波性が格段に向上し、外洋航行能力を獲得

の5つでした。

まず、1番については、睦月型でも当時としては高火力であったにも関わらず、そこからわずか数年で2門も増やしました。
主砲口径も12cmから12.7cmにやや強化されています。
また砲塔化し、密閉式になったことで戦闘中に波の飛沫や、破片などを気にすることなく戦うことができます。
他にも、睦月型では、砲を回した時に、装填などのための道具などは床に置いていたので、いちいち人力で動かす必要なんかもありましたが、吹雪型では砲塔式なので床も一緒に回るのでそういう問題もありません。

2番は、睦月型では3連装2基であった魚雷3基にしました。次発装填装置は当時ありませんでしたが、予備の魚雷も積んでいました。(次発はクレーンを使って装填することが可能でした。)
駆逐艦での同時発射数としては島風型の15本に次ぐ9本と日本海軍2番手です。

そして3番は、今まで荒天時には波を被っていた艦橋が密閉式になることで指揮系統などの改善が図られています。

4番5番は、艦首形状をより洗練したダブルカーブド・バウにすることで凌波性が格段に向上し、外洋航行が可能になりました。
特に外洋は波が高いことが多々あるので、密閉式艦橋がこういうところで生きてきます。
また、外洋航行が可能になったということで、艦隊決戦において駆逐艦が艦隊に加わることになり、立派な水雷戦力となりました。

ちなみにマイナーチェンジを行なっているので、特I型(吹雪型)と特Ⅱ型(綾波型)と特Ⅲ型(暁型)に分類されることがあります。
この記事では吹雪型(特型)駆逐艦と、吹雪型(特Ⅰ型)の混同を避けるため、特型駆逐艦、特Ⅰ型と基本呼称しています。

こんなことしたら重たくなるんじゃ?と思いますよね。
こちらに対しては電気溶接を多用し、軽量化を図りました。(当時はリベットによる接合が主流でした)
電気溶接で船体が軽くなって、上部構造物の兵装が増えたということは、重心が上がる(トップヘビーになる)わけで、もちろん復元生も下がります…
この電気溶接やトップヘビーが後々大きな事件につながります。
ちなみに特I型は機関重量が所定をオーバーしていたので、後の特Ⅱ、特Ⅲ型より重心が低くなっています。
この機関重量の問題で艦政本部第5部長が責任を取る形になってたりしますが…

ロンドン海軍軍縮条約

1930年、ロンドン海軍軍縮条約が採択されました。
ロンドン海軍軍縮条約では補助艦艇の制約がかかったので巡洋艦駆逐艦排水量の大きな制約がかかりました。
36年に日本が脱退したこともあり、大きな影響はありませんでしたが、それでも影響は出ています。

最大の影響は特型駆逐艦の製造が封じられたことです。
英米などからすると、当時としては破格すぎる性能の吹雪型をこれ以上製造させたくないので、1500トン以上の駆逐艦保有排水量を、駆逐艦全体の保有排水量の16%に制限しました。日本だと16880トンまでしか1500トン越えの駆逐艦を持てなくなりました。これは特型駆逐艦10隻分に相当します。(特型は1隻あたり1680トン)
これにより日本は特型駆逐艦の新規建造ができなくなりました。
なおロンドン海軍軍縮条約では建造中や就役済みの艦は保有を許可されたようで、特型は就役済みの特Ⅰ型10隻(改Ⅰ型の浦波を含む)と、建造中だった特Ⅱ型10隻、特Ⅲ型4隻を就役させています。
そこで1500トン以下の駆逐艦として建造されたのが初春型です。

初春型駆逐艦

初春型駆逐艦1番艦「初春」

簡単に言えば初春型は、「排水量制限されたから、特型駆逐艦をほぼ同性能で小型化しようぜ」と言ったテーマで建造されました。
排水量吹雪型の1680トンから1400トンに減らす予定でした。無茶すぎる…
え?吹雪型ですらトップヘビーだったのに小型化して大丈夫かって?
全然大丈夫じゃありません。
最初に完成した1番艦初春と2番艦子日(子日)の公試結果から、復元性が足りないことがわかり、起工していた6番艦夕暮以降の建造が一旦取り止められました。
7番艦以降の船は再設計され、白露型として就役しています。
このことについては次の項で詳しくお話しします。

ちなみに、ロンドン海軍軍縮条約で、駆逐艦保有数の制限がかかったので、水雷艇が復活しています…

友鶴事件と重心

ロンドン海軍軍縮条約で復活した水雷艇が、1934年3月、事故を起こしました。
千鳥型水雷艇番艦「友鶴」による、友鶴事件です。
原因は復元力不足による転覆でした。

千鳥型水雷艇3番艦「友鶴」

睦月型以降、重心が高くなっていましたが、ここで大きな影響が出ました。
特に、設計上では問題なかった重心位置や復元力が、工事の上での重量増加などにより、設計上よりも重心がはるかに高くなっていました。
これにより千鳥型水雷艇はもちろん、他にも重心が高かった特型駆逐艦特型の次級となる初春型に重心調整の工事が入りました。

特型駆逐艦の重心調整

特型では艦橋の縮小や、伝声管の撤去などにより上部構造の重量を減らしました。
特1型は機関重量が重く、重心が低かったので艦橋はそのままとなっています。(ある意味機関重量オーバーのおかげで助かった形に…)

改装前の特3型3番艦「響」
改装後の「響」

艦橋が2階部分まであったのが1階に減ってることがわかると思います。
特型はこのような改装でした。

初春型の重心調整

そして、最も影響があったのは初春型です。

改良内容を見る前に一度初春型の詳しい設計をみましょう。

初春型駆逐艦1番艦「初春」

砲は12.7cm連装砲を2基、同単装砲を1基です。
特型では前に連装1基、後ろに連装2基でしたが、初春型では正面に連装と単装を1基づつ載せています。

「初春」

ただ、見てもらえれば分かる通り、一段高い前甲板のより高いところに2番砲塔があるので、非常にバランス的に不安になる見た目です…
魚雷は特型と同様に3連装3基とし、9射線を確保していました。
排水量特型から300トンほど減らした1400トンで、特型以上に電気溶接を多用することで軽量化を図りました。

ですがみなさんお察しの通り、十分無理をしていた特型から排水量を300トン近く減らしたにも関わらず兵装は砲が1門減っただけなんて無理なことでした。事件より前の1933年の9月から10月ごろ初春型の公試では、舵を10度きっただけで、船体が38度も傾くというあり得ない記録を残し、建造に着手していなかった7番艦以降を建造中止に追い込みます。
そして7番艦以降は設計変更を行い、白露型として建造されます。
しかし、6番艦までは改良の必要性がありました。

この公試のすぐ後の1934年3月には友鶴事件が発生し、竣工済みの初春、子日は緊急改造、まだドックにいた3番4番艦の若葉、初霜はドック内で同様の緊急改造を受けました。
工事内容は
・2番砲の単装砲を後部に回す
・3番魚雷発射管の撤去
・バルジの撤去
・煙突の高さやその他機器の高さを下げる
・船底にバラスト配置
などでした。

なお5番6番艦の有明、夕暮はまだ船台の上にあり、艤装が始まっていなかったので、船体から設計変更をある程度行った上で竣工しています。
特に6番艦の夕暮は白露型に近い船体になっています。

改装後の初春型 高い位置にあった2番砲(単装)が船体後ろに配置されている

白露型に関しては初春の反省を生かし、1番艦「白露」は事件直前の1933年11月に起工しました。
白露型は事件の影響で重心を治して設計されているため、もちろん初春型のような重心問題は起きませんでした。

第四艦隊事件と船体強度

友鶴事件からわずか1年、1935年9月に第四艦隊事件が発生します。
この事件は、演習に出ていた第四艦隊が台風に遭遇したことが発端でした。

第四艦隊は、9/24から9/25にかけて、総数41隻が函館港を出港しました。
出港時から台風が来るのはわかっていました。26日朝には午後台風に遭遇することが判明し引き返すことも検討されましたが、すでに海は荒れており、多数の艦の回頭で衝突事故も考えられます。艦隊は、台風の影響下での戦いもあり得るということで、そのまま台風下での航行訓練を行うことにしました。
結果として、第四艦隊所属の特型駆逐艦「初雪」「夕霧」は、波で艦橋付近から前の艦首部分が切断されるという大損害を受けました。この時、初雪の艦首を発見した羽黒は、曳航を試みましたが失敗。そして艦首には、暗号解読表などの機密書類がある電信室があり、漂流し、他国の手に渡ってしまうといけません。艦首にいると思われる24名の乗員は救出の見込みもなく、状況的にも全員死亡している可能性が高いと判断され、やむなく艦砲射撃で沈めています…

特型駆逐艦2番艦「白雪」の切断された艦首部分

原因と改修工事

原因は船体の強度不足で、特に重量軽減を図るための電気溶接がまずいという結論に至りました。
そんなわけで、電気溶接を多用した特型全艦、そしてその後に建造されている初春型、建造中の白露型は大きな工事、設計変更を行われることになります。
改修内容は主にリベットへの変更や、船体形状の変更などでした。
これらにより、就役済みの特型、初春型は数ノット速力が落ちることになります。(それでも特型は他国の駆逐艦を大きく凌ぐ性能でした)

この後の艦は電気溶接の部分を大きく減らすことになりますが、技術向上により、戦中の船には再度使用されるようになっています。

白露型駆逐艦

ついに最後の項になりました…
なんとここまで6000文字…書く方も大変でしたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます

最後にこの2個の事件を踏まえて完成した白露型について見ていこうと思います。
そもそもですが、白露型は前でも話した通り、初春型の改修型です。

ここからは初春型(改修工事後)との比較です。
砲は初春型と同じ12センチの連装2基単装1基
魚雷は初春型の3連装2基から4連装2基へ更新
機関も同じでした。
コンセプトとしては、初春型と同等の機関で初春型の改修前の速力に戻そうというものでした(初春型は改修工事で大きく速力が落ちています)
もちろん、軽量化のために電気溶接を多用し、建造を始めましたが、建造開始後、第四艦隊事件によって、リベットへ戻すことになります。
結果として性能改善後の初春型を軽量、高速化し、魚雷を強化したような形の船となりました。
白露型は、日本海軍としては、初春型から始まったロンドン海軍軍縮条約下の小型駆逐艦としては最後の艦級となり、ここからは条約脱退後の2000トン級の大型駆逐艦に舵を切ることとなります。(ちなみにロンドン海軍軍縮条約での駆逐艦の規定では1850トンまでが駆逐艦)
この頃から世界でも駆逐艦の大型化が進む時代となり、第2次世界大戦の頃には各国で2000トンを超えた駆逐艦が多く建造されるようになりました。>

白露型2番艦「時雨」

小ネタ

ロンドン海軍軍縮条約で、駆逐艦排水量は600トン以上、1850トン以下と定義され、1500トン越えの駆逐艦保有排水量駆逐艦の全体の排水量の16%に制限しました。日本だと16880トンまでしか1500トン越えの駆逐艦を持てなくなりました。これは特型駆逐艦10隻分に相当します。(特型は1隻あたり1680トン)
これにより日本は特型駆逐艦の新規建造ができなくなりました。
なおロンドン海軍軍縮条約では建造中や就役済みの艦は保有は許可されていました。
ということをロンドン海軍軍縮条約の項で書きました。

この1500トン以下の制限によって生まれた、1400トン級の高性能駆逐艦を目指した初春型と白露型ですが…
結局特型が1680トン(建造時の排水量、改修工事で少し排水量増えてるはず)に対して、初春型の改修工事後は1780トン、白露型でも1685トンという結果になりました…
あれ?武装だと特型が1番いっぱい積んでるんだけどな…

ついでに軍縮条約の制限の1500トンも超えていますが、他国には内緒にしてたみたいです。

小ネタ2

ちなみに…日本側には、太平洋戦争中に台風で沈んだ船はません。
例えば、1944年にコブラ台風にあった松型駆逐艦2番艦「竹」が生還しています。

一方、アメリカ側の、ウィリアム・ハルゼー指揮下の第38任務部隊が、フィリピン東沖でコブラ台風に遭遇した際にはは3隻の駆逐艦が沈没しています。

これは友鶴事件と第四艦隊事件による改良工事の結果かもしれません。
アメリカには戦中でも、トップヘビーの問題を抱えた駆逐艦が少なからず居ました。(ファラガット級など)



今回はここまでにします。結局7500文字くらいまでなっちゃいました。
今回は調べごたえのある回だったので書くのも大変でしたがとても楽しかったです。(結構知らないこともあって知見がいっぱいでした)
次回は2次大戦までの駆逐艦の進化の話になるかなと思います。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。


駆逐艦発達史 ぱーと1 駆逐艦の誕生と第一次世界大戦

本当は特型駆逐艦について無限に語りたかったのですが、特型駆逐艦のためにはそれまでの駆逐艦の歴史を知らないと魅力がわからないので駆逐艦の歴史について書きます。

駆逐艦はイイぞ!

 

ってことで目次です。

 

 

水雷艇水雷艇駆逐艦

1880年代、世界中で水雷艇が大量に建造されました。

水雷艇っていうのはは、安価で小型で、魚雷をはじめとした水雷装備を搭載した船でした。つまり軍用ボートみたいなものです。

特に魚雷が開発されてから問題になったのは、水雷艇に大型艦が沈められることがあったこと。

 

これ以来、当時、重砲などでも撃沈が難しかった大型艦を、安価な魚雷で沈められることがわかり、脅威とみなされるようになった。

だってこんなちっさいやつに、お金いっぱい注ぎ込んで作った戦艦がやられたら、たまったもんじゃないからね。

しかも戦艦の主砲じゃこんな小さいやつは狙うのは困難。

 

ってことで、イギリスでは、敵の水雷艇に対抗するための艦種「水雷艇駆逐艦」を生み出した。

この水雷艇駆逐艦は、水雷艇にはより強い水雷艇をという考えで生み出されたもので、従来の水雷艇を大型化したものだった。

そんな世界初の水雷艇駆逐艦はイギリスのA級駆逐艦「ハヴォック」である。

イギリス海軍 A級駆逐艦「ハヴォック」

 

で、このハヴォック、排水量250tくらいで、水雷艇の倍くらいのサイズだった、砲は主砲の7.6cm 1門と5.7cm 3門、あと魚雷を積んでた。

しかも水雷艇はボートサイズだったからあんまり湾外に出れなかったけど、水雷艇駆逐艦なら大きいのである程度凌波性があり、今までの水雷艇が湾内みたいな波がほとんどないところしか行けなかったのが、内海くらいなら行けちゃう。

しかも魚雷積んでるから大型艦の相手もできる……あれ?大型艦に随伴させたらいいんじゃね?ってことで、大型艦の護衛艦にもなりました。

ただし内海に限るのでイギリスやドイツであればイギリスと大陸の間の北海やドーバー海峡が行動範囲でした。

 

ってなると水雷艇の存在意義が…ってことで水雷艇駆逐艦水雷艇の存在意義ごと駆逐して、水雷艇という艦種を消し去りました。

となると駆逐対象の水雷艇がいなくなっちゃったのでそれ以来駆逐艦と呼ばれるように。

 

ちなみに日本でも雷型水雷艇(駆逐艇)が1899年にイギリスで建造されていて日露戦争にも参加している。

この雷型が日本初の駆逐艦で、ここから日本の駆逐艦史は始まったと言っても過言じゃないかも?

雷型駆逐艦「雷」

 

駆逐艦の普及と発展

本格的に駆逐艦が広まったのは第一次世界大戦の前あたり。「ハヴォック」からどんどん各国で大型化されていき、凌波性を順調に上げていった。

 

イギリスではあのドレッドノート級に高速駆逐艦を随伴した艦隊を作ろうぜっていう計画ができたりしたのでイギリスは砲火力重視の戦艦護衛の駆逐艦(F級)を開発した。

 

また、従来の駆逐艦から大幅に大型化した「スウィフト」を建造したんだ。

「スウィフト」は元となったE級駆逐艦から排水量で4倍(550t→2200t)ほど、全長で1.5倍(70m→100m)ほど。

なお、建造費が高すぎて1隻しか作れなかった模様…

イギリス海軍 駆逐艦「スウィフト」

 

ちなみにドイツは当初は雷撃重視でしたが、大型艦の護衛には駆逐艦が絶対付くようになったので、雷撃の前に敵の駆逐艦を撃破しないといけない、となると、砲火力が足りないってことで、砲火力重視に転換しました。

 

ドイツがこのことを学んだのが1916年のユトランド海戦です。英対独の戦いでしたが、ドイツ駆逐艦がイギリスの主力艦に雷撃をしようと接近したところ、イギリス駆逐艦の火力で完封され、結果雷撃はできませんでした。

ここからドイツは砲火力に力を入れるようになりました。まぁその頃には第一次世界大戦に敗戦したけど…

 

このユトランド海戦、世界中に影響があり、駆逐艦を砲戦重視にするように舵が切られた。

例えば日本だと、八六・八八艦隊計画により、古鷹型重巡洋艦や、峯風型系列の、峯風型、神風型が建造されました。

これは、ユトランド海戦から学んだ砲撃重視の思想のもと、敵の軽巡主体の水雷戦隊は、同じく水雷戦隊で迎え撃つ、より強力な巡洋艦部隊は重巡洋艦で迎え撃つという思想の結果でした。古鷹・峯風ともに当時としては破格の砲性能で、特に峯風型は凌波性もかなり良好でした。

神風型はワシントン海軍軍縮条約の後に完成してますが実質影響を受けてません。ワシントン海軍軍縮条約の影響を受けたのは睦月型からです。

峯風型駆逐艦「峯風」

 

そして第一次世界大戦には駆逐艦に、他にも大きな仕事が与えられました。

ドイツの無制限潜水艦作戦の対抗策として、水中聴音機と爆雷を積んだ対潜任務。

そして機雷敷設と除去を行う機雷敷設・掃海任務。

小型高速でバランスの取れた武装を持つ駆逐艦は汎用性が高く、様々な任務で使いやすかった。

そこで第一次世界大戦以降、駆逐艦は汎用性の高い便利屋として、より高い汎用性を求めて発展していくようになりました。

 

 

今回はここまでです。

次回は2つの海軍軍縮条約特型駆逐艦の話になるかな