本当は特型駆逐艦について無限に語りたかったのですが、特型駆逐艦のためにはそれまでの駆逐艦の歴史を知らないと魅力がわからないので駆逐艦の歴史について書きます。
駆逐艦はイイぞ!
ってことで目次です。
水雷艇と水雷艇駆逐艦
水雷艇っていうのはは、安価で小型で、魚雷をはじめとした水雷装備を搭載した船でした。つまり軍用ボートみたいなものです。
特に魚雷が開発されてから問題になったのは、水雷艇に大型艦が沈められることがあったこと。
これ以来、当時、重砲などでも撃沈が難しかった大型艦を、安価な魚雷で沈められることがわかり、脅威とみなされるようになった。
だってこんなちっさいやつに、お金いっぱい注ぎ込んで作った戦艦がやられたら、たまったもんじゃないからね。
しかも戦艦の主砲じゃこんな小さいやつは狙うのは困難。
ってことで、イギリスでは、敵の水雷艇に対抗するための艦種「水雷艇駆逐艦」を生み出した。
この水雷艇駆逐艦は、水雷艇にはより強い水雷艇をという考えで生み出されたもので、従来の水雷艇を大型化したものだった。
そんな世界初の水雷艇駆逐艦はイギリスのA級駆逐艦「ハヴォック」である。
で、このハヴォック、排水量250tくらいで、水雷艇の倍くらいのサイズだった、砲は主砲の7.6cm 1門と5.7cm 3門、あと魚雷を積んでた。
しかも水雷艇はボートサイズだったからあんまり湾外に出れなかったけど、水雷艇駆逐艦なら大きいのである程度凌波性があり、今までの水雷艇が湾内みたいな波がほとんどないところしか行けなかったのが、内海くらいなら行けちゃう。
しかも魚雷積んでるから大型艦の相手もできる……あれ?大型艦に随伴させたらいいんじゃね?ってことで、大型艦の護衛艦にもなりました。
ただし内海に限るのでイギリスやドイツであればイギリスと大陸の間の北海やドーバー海峡が行動範囲でした。
ってなると水雷艇の存在意義が…ってことで水雷艇駆逐艦は水雷艇の存在意義ごと駆逐して、水雷艇という艦種を消し去りました。
となると駆逐対象の水雷艇がいなくなっちゃったのでそれ以来駆逐艦と呼ばれるように。
ちなみに日本でも雷型水雷艇(駆逐艇)が1899年にイギリスで建造されていて日露戦争にも参加している。
この雷型が日本初の駆逐艦で、ここから日本の駆逐艦史は始まったと言っても過言じゃないかも?
駆逐艦の普及と発展
本格的に駆逐艦が広まったのは第一次世界大戦の前あたり。「ハヴォック」からどんどん各国で大型化されていき、凌波性を順調に上げていった。
イギリスではあのドレッドノート級に高速駆逐艦を随伴した艦隊を作ろうぜっていう計画ができたりしたのでイギリスは砲火力重視の戦艦護衛の駆逐艦(F級)を開発した。
また、従来の駆逐艦から大幅に大型化した「スウィフト」を建造したんだ。
「スウィフト」は元となったE級駆逐艦から排水量で4倍(550t→2200t)ほど、全長で1.5倍(70m→100m)ほど。
なお、建造費が高すぎて1隻しか作れなかった模様…
ちなみにドイツは当初は雷撃重視でしたが、大型艦の護衛には駆逐艦が絶対付くようになったので、雷撃の前に敵の駆逐艦を撃破しないといけない、となると、砲火力が足りないってことで、砲火力重視に転換しました。
ドイツがこのことを学んだのが1916年のユトランド海戦です。英対独の戦いでしたが、ドイツ駆逐艦がイギリスの主力艦に雷撃をしようと接近したところ、イギリス駆逐艦の火力で完封され、結果雷撃はできませんでした。
ここからドイツは砲火力に力を入れるようになりました。まぁその頃には第一次世界大戦に敗戦したけど…
このユトランド海戦、世界中に影響があり、駆逐艦を砲戦重視にするように舵が切られた。
例えば日本だと、八六・八八艦隊計画により、古鷹型重巡洋艦や、峯風型系列の、峯風型、神風型が建造されました。
これは、ユトランド海戦から学んだ砲撃重視の思想のもと、敵の軽巡主体の水雷戦隊は、同じく水雷戦隊で迎え撃つ、より強力な巡洋艦部隊は重巡洋艦で迎え撃つという思想の結果でした。古鷹・峯風ともに当時としては破格の砲性能で、特に峯風型は凌波性もかなり良好でした。
神風型はワシントン海軍軍縮条約の後に完成してますが実質影響を受けてません。ワシントン海軍軍縮条約の影響を受けたのは睦月型からです。
そして第一次世界大戦には駆逐艦に、他にも大きな仕事が与えられました。
ドイツの無制限潜水艦作戦の対抗策として、水中聴音機と爆雷を積んだ対潜任務。
そして機雷敷設と除去を行う機雷敷設・掃海任務。
小型高速でバランスの取れた武装を持つ駆逐艦は汎用性が高く、様々な任務で使いやすかった。
そこで第一次世界大戦以降、駆逐艦は汎用性の高い便利屋として、より高い汎用性を求めて発展していくようになりました。
今回はここまでです。